そもそも、何故竹細工をしているのか?(その21)〜竹バッグ、爆誕!編〜

そもそも、何故竹細工をしているのか?シリーズ

〜竹バッグ、爆誕!編〜

弟子たちも少しずつ増え、工房は毎日にぎやか。

竹を割る音、編む音、笑い声。
注文にも追われ、まさに“竹まみれ”の日々でした。

当時の別府では、職人の8割くらいが花籠を作っていたのではないでしょうか。

それくらい、花籠全盛時代だったのです。


しかし、そんな中でも、私は少しずつ時代の変化を感じ始めていました。

記念品や引き出物の大量注文が減ってきた。
大きな日本家屋が減り、マンション暮らしが増えてきた。
床の間が消え、和室が減り、プレハブ住宅が増えていく。

さらに昔は、

「お茶・お花・お裁縫」

が花嫁修業の定番でしたが、そんな時代も変わり始めていました。

つまり――

花籠を飾る“場所”も“文化”も、少しずつ変わってきていたのです。


そんなある日。

取引先の問屋さんから、一本の電話。

「高江君、竹のハンドバッグ作れないかな?」

えっ、バッグ?

当時は、超有名な大先生が作る高級竹バッグはありました。

でも問屋さんが欲しかったのは、

“もっと手が届く、おしゃれな竹バッグ”。

「これは絶対売れると思うんだよね〜」

その一言から、新しい挑戦が始まりました。


最初に作ったのは、網代編みのバッグ。

工房ではバッグ本体を作り、
巾着部分は縫製屋さん、
持ち手は問屋さんが手配。

みんなで一つのバッグを作る、分業スタイルです。

販売価格は――

38,000円。

当時の花籠が1万円くらいでしたから、かなり高額商品です。

正直、

「本当に売れるの?」

半信半疑でした。


ところが。

10個納品したら、すぐ追加注文。

「もっと作って!」

「違う編み方でも!」

「サイズ違いも欲しい!」

気づけば、どんどん種類が増えていきました。


後になって、その問屋さんの奥さんが、当時の社内秘話を教えてくれました。

奥さんが、

「竹バッグを高江君に作ってもらおうと思う」

と言ったところ、会長さんが、

「竹バッグなら〇〇先生に頼みなさい」

と反対したそうです。

そりゃそうです。

当時の私は、まだ若手職人。

でも奥さんが、

「これから伸びる若い職人に作ってもらいたいんです!」

と押し切ってくれた。

ありがたい話です。

今の自分があるのは、こういう“誰かの後押し”のおかげなんですね。


今では「竹のハンドバッグ」って普通に聞こえるかもしれません。

でも当時は、業界に新風を吹き込むくらい衝撃的だったのです。

なぜヒットしたのか?

それは、花籠とは“市場”が違ったから。


花籠や盛籠は、家の中で使う“リビング用品”。

でもバッグは――

“ファッション”。

つまり、

家に置くものではなく、外へ持ち歩くもの。

市場規模も、価値観も、まるで違ったのです。


しかも、おしゃれな竹バッグを持って街を歩いていると、

「そのバッグ、素敵ですね」

と声を掛けられる。

人は、

“お気に入りを持ち歩きたい”

そして、

“良いものを持っている自分を認めてもらいたい”

そんな気持ちがあるのだと思います。


こうして、工房にも大きな変化が訪れました。

取材も増え、
雑誌にも載り、
花籠中心だった工房は、

いつしか――

“竹バッグの工房”

へと変わっていったのです。

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