北海道放浪編 ~教会に泊まり、熊の出そうな山で働く18歳~
前回、上野で謎のおじさんに追いかけられ、交番の横で朝を迎えるという、なかなかスリリングな旅のスタートを切った18歳の私。
「自分探しの旅」は、まだ始まったばかりでした。
鈍行列車をひたすら乗り継ぎ、二日目は盛岡へ。
盛岡駅は、夜中でも貨物列車が行き交っていて、駅が閉まらない。
ありがたいことに、待合室で一夜を過ごすことができました。
そして翌日、青森へ。
そこからはいよいよ青函連絡船です。
船に乗った瞬間、頭をよぎるのが――
「洞爺丸事故」
いや、なぜ今それを思い出す。
1954年に起きた、日本海難史上最悪とも言われる大事故。
海が荒れたらどうしよう…と、急に不安になる18歳。
若さとは、「勢い」と「ビビり」が共存する不思議な時代です。
ともあれ、船は無事に函館へ到着。
まず向かったのは、母親の知り合いの家。
その方、なんと地元の顔役。
「まあ働いてみるか」と、すぐに住み込みの仕事を紹介してくれました。
勤務先は、函館の燃料品店。
これから冬を迎える北海道では、石炭や灯油の配達が大忙し。
石炭を運べば、顔も手も真っ黒。
でも、それが妙に気持ちいい。
それまでロクに肉体労働なんてしたことがなかったので、毎日が新鮮でした。
ただ、住み込み生活には、別の緊張感もある。
ある日、奥さんがご主人にこう言っているのが聞こえました。
「あの子が入った後、お風呂に髪の毛が落ちてるの…」
……すみませんでした!!
18歳、人生初の“共同生活マナー”を学ぶ。
旅って、人を成長させます。
実は、この旅には自分なりのルールがありました。
それは――
「一か所に居着かない」
少し働いて旅費が貯まったら、また次の土地へ行く。
まるで昭和版バックパッカーです。
函館で一か月半ほど働いた後、再び旅へ。
しかし、北海道の冬は甘くない。
野宿?
死にます。
ホテル?
そんな金はない。
そこで編み出したのが、
「お寺と教会に泊めてもらう作戦」
お寺は意外と厳しい。
でも教会は、事情を話すと泊めてくれることが多かった。
ただし条件付き。
牧師さんのお話を、しっかり聞くこと。
つまり、
「宿代=人生相談」
だったわけです。
そんな放浪の末に辿り着いたのが、平取町のアイヌ部落。
当時よく流れていた「ふきのとう」の『白い冬』を聞くと、今でもあの頃を思い出します。
旅を続けるうちに、私は妙なスキルを身につけていました。
それは――
“知らない土地で自然に人に懐に入る力”
お土産屋さんで世間話を始め、
「この辺で泊まれる所ありませんかねぇ」
と聞いたら、
「うち泊まりなさい」
…人生、時々どうにかなるものです。
その家の主人は“康ちゃん”。
アイヌ民族運動のリーダーでもある、豪快な人物でした。

1946年2月、北海道沙流郡平取町生まれ。日本人名は山道康子。61年、15歳でアイヌ活動家として活動を始める。79年に「沙流川を守る会」を立ち上げ、二風谷ダム(竣工)、平取ダム(凍結中)への反対運動を行う。89年にアイヌ語学校を設立。同年8月、アイヌモシリ一万年祭を開催。今年で27回目を迎える。活動の傍ら、孤児となった子どもを引き取り、50人以上を育てあげる。現在も10人の子どもとの共同生活をしている。
家には私以外にも女性の居候が二人。
なんだか不思議な共同生活です。
部落の中で細々と手伝いをしながら、一週間ほど過ごしました。
そして次に紹介されたのが、康ちゃんのお兄さん。
この人の仕事がまたワイルド。
山奥へ入って、庭石になる大きな石を掘り出す仕事です。
現場へ向かうには、ブルドーザー。
雪をかき分け、石にワイヤーを巻きつけるのが私の役目。
周囲は完全に山奥。
「熊、出てもおかしくないよな…」
と思っていたら、どうやら熊の方が重機の音を嫌がって逃げていたらしい。
助かった。
そんな山仕事をしながら旅費を貯め、再び放浪へ。
そして年越しを迎えたのは帯広でした。
ところが、家に電話をすると、
「お爺ちゃんの具合が悪い。帰ってこい」
とのこと。
こうして、勢いだけで始まった18歳の青春放浪旅は、あっけなく幕を閉じたのでした。
でも今思えば、あの旅で学んだのは“自分探し”なんて格好いいものではなく、
「人は、人に助けられて生きている」
という、とてもシンプルなことだったのかもしれません。


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